マリア
14
久しぶりに訪れた社交界は、とても遠い存在のように思えた。
光を四方へ跳ね返し、きらめく水晶のシャンデリア。幾重にも折り重なったレースの、すばらしく優雅なドレス。グラスが触れあう涼やかな音と、明るい喧噪。何もかもが懐かしく、輝かしく、まぶしかった。
驚いたな。外側から見た貴族社会は、こんなにも優雅なものだったのか。一歩踏み込んだ先に、欲望にまみれたふしだらな世界が広がっているとは信じがたいくらいだ。
「久しぶりだな、ニコロ」
低く、それでいて甘みのある落ち着いた声に振り向く。声の主は、僕の予想通り、上品なスカイブルーの衣に身を包んだダンテだった。相変わらず、常に僕を探しているのかと思うほど反応が早い。
「お前が来るのは新年以来じゃないか? どうやら、例の婦人に相当夢中のようだな」
呆れるよまったくという顔をされて、僕はあわてて否定する。
「いや、僕がマリアに夢中なのは事実だが、顔を出さなかったのは彼女のせいじゃないよ。仕事をしていたんだ」
そう、ダンテには信じてもらえないかもしれないが、僕は仕事をしていた。現地視察としてバルバレスコやバローロに行ったり、葡萄農家をたずねて歩いたり。つい先日は、カスティリオーネ・ファレット村にある葡萄農家へ、一週間ほど宿泊させてもらっていた。
新年を迎えたばかりのこの時期、木々たちはつぎの季節に向けてぴたりと活動を止めてしまう。動物で言う冬眠のようなものだ。ここを見計らって、職人たちがいっせいに剪定を始めるのだ。
実も葉ない、丸裸の枝を切るという、一見すると地味な作業だが、これが実はとても大切なことなんだ。葡萄の枝は、放っておけば好き放題に伸びてしまう。そうすると当然、予期せぬ実りがついてしまうことになる。余分な葡萄が実れば、栄養や甘みがその分だけ拡散され、味わいが薄く少なくなってしまう。それを防ぐために、農家は厳しい剪定を行っていた。葡萄の、ひいてはワインの品質を左右する、大事な瞬間だ。
一週間、そこで短いながらも非常に有意義な経験をさせてもらった。僕が葡萄を作るわけではないが、この経験は今後、きっと僕の助けになる。そんな気がするよ。
「仕事? ニコロが?」
ダンテがあまりにも怪訝そうに言うので、思わず苦笑する。家族よりも僕を知っている彼ですら、こういう反応なんだ。どれだけ僕が遊蕩児だったのか、よく思い知らされる。
「なんだってお前が仕事を……」
そこまで言って、ダンテがはっと気づいたようだった。
「……“マリア”か、つくづく妬けるね、彼女には」
不機嫌そうにこぼしながら、髪をかきあげる。僕は困ったように微笑んだ。
元々、ダンテは僕たちの付き合いには反対していたからね。快く思わないのはしょうがない。それに、これくらいですませてくれるだけありがたいというものだ。
周知の通り、貴族社会の繋がりは現実的で冷徹なもの。好き嫌いという個人の感情よりも、自分の利益に繋がるかどうか、有用な人脈かどうかで判断される。いまでこそ僕は、独身で金もあるからもてはやされているが、貧民女性に入れ込んでいると一言でも言ってみろ。水害を察した鼠の一群よりも早く、周囲から人が消えるだろう。僕が唯一損得抜きでつき合える貴重な人間、それがダンテだった。
まあ、僕はそんな彼の意見をも無視して、マリアに入れ込んでいるけれどね。ここへさらに、僕が何を考えて仕事しているのかを話したら、もしかしたら彼は口を聞いてくれなくなるかもしれない……。いずれは言わなければいけないとわかっていても、やはり気が重いよ。
「ああ、僕のロッテよ!」
僕がダンテにどう話そうか考えていたとき、不意に広間から大きな声が響いてきた。見ると、青の燕尾服に黄のチョッキという、ずいぶん変わった組み合わせの服を着た男が婦人の前にひざまずいている。
何事だ? 問いかけようと反射的にダンテを見ると、彼にしては珍しく露骨に嫌な顔をしていた。嘲笑と嫌悪が入り交じった表情とでも言えばいいのだろうか。それを不思議に思いながら、僕は声に出して聞いた。
「いったいなんだい、あれは?」
「最近の流行だ。ああやって遊ぶのが、楽しいらしい」
彼が吐き捨てるように答えた。これもまた、ずいぶん珍しい光景だ。
「へえ。戯曲か何かの台詞?」
「……『若きウェルテルの悩み』と言う、小説だよ」
様子をうかがいながらなおも聞くと、ダンテの嵐色の瞳が鈍く光った。それは僕に“本当に、この先を知るのか?”と問いかけているように見える。
「初めて聞くね。どんな話なんだい?」
“ああ、聞くとも”。瞳にメッセージを込めて、僕は挑むように彼を見上げた。ダンテがしばし僕を見つめて、ふっと視線をはずす。そして、ぞんざいな口調で説明し始めた。
「ドイツの詩人が書いたという、ずいぶん面白いものさ。これがいま、階級関わりなく大流行している。主人公が思いを寄せる女の名前ってことで、いま社交界には大勢の“ロッテ”が溢れかえっているよ」
「へえ」
どうやら、愛する人を“ロッテ”と呼ぶのが流行らしい。小さい頃に、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真似て遊んだようなものか。そういう“ごっこ”遊びが大好きなのは、大人になってからも変わらないようだ。いや、大人になったからこそ、かもしれないな。
僕も早速、流行を追って頭の中で呼んでみた。マリアに向かって「僕のロッテ」と。……しかし、話の内容を知らず、またダンテの様子も引っかかったせいか、どうもしっくり来ない。そもそも、彼女にはマリアというすばらしい名前があるんだ。わざわざ誰かの言葉を借りて呼ぶ必要なんてないだろう。
僕が自分の結論に満足していると、不意にダンテが低く押さえた声で言った。
「……俺は、ロッテはそんなにいいものじゃないと思うけれどね」
嵐の前の静けさという言葉があるが、彼の声音は、まさにそれを予期させるような不吉な響きを持っていた。
本当に、今日の君は何を考えているんだ? そうたずねることすらためらわれる、不穏な空気がダンテを包んでいる。
「ま、俺たちには関係のない話だ」
いぶかしんでいると、ダンテが一転して明るく笑い飛ばした。だが、その言葉も不思議と耳に引っかかる。まるで、“君には関係ない”と僕に言い聞かせ、遠ざけたがっているようだ。そこまで考えて、僕はひとつの考えに思い至る。
……もしかしたら本当に、ダンテは、僕にあの本を読んでほしくないのかもしれない。
一度そう思うと、それ以外の理由は考えられなくなった。
いったい、なぜ? そして、ダンテにそこまで言わせる『ウェルテル』とは、どんな本なんだ?
やめておけ、と僕の中で誰かが囁いている。ダンテの忠告を無視するなんて、お前はどこまで馬鹿なのか、と。
なのに、気がついたら僕の手元には、『若きウェルテルの悩み』が握られていた。
夜の帳が世界に降りる。暖かく、希望に満ちたいっさいを覆い隠して、地獄の女王が支配する世界。お供の番兵ですら見あたらない、真っ暗闇の夜だった。
僕が『ウェルテル』を手に入れたことは、マリアに知らせていない。欧羅巴中で流行っているんだ、きっと彼女も興味を持つ。そう思うのに、僕はとうとうこの本のことを打ち明けられなかった。
何の変哲もない、ざらりとした手触りのマホガニー色の表紙。本は静かにたたずんで、僕に読まれるのを待っている。
なんてことはない、ただの本じゃないか……。
そう言い聞かせて、僕はページをめくった。
――ウィルヘルムよ、もし恋なかりせば、この世はわれらの心にとってなんであろうか?
――ロッテの眼差しが彼の顔に、頬に、上衣のボタンに、外套の襟に向けられていたと思うと、これらのものが、この上なく神聖に貴く感ぜられた。
――「あのひとを見よう!」朝目を覚まして、心から快活に、美しい太陽を仰ぐとき、私は叫ぶ、「あのひとを見よう!」これでもう終日ほかの願いはない。すべては、すべては、この期待の中に飲み込まれてしまう。
――あのひとのほかには何も知らず、何も解せず、何も持ってはいないのに、どうしてほかの男があのひとを愛することができるのだろう? 愛することが許されるのだろう?
――何も願わず、何も求めぬ。いまや去るべきであるのだろう。
――よろこばせやる人を悲しませるのが、私の運命だった。
――十二時が鳴っています! では! ロッテ、ロッテ! さようなら! さようなら!
僕は一睡もせずに、『ウェルテル』を読みふけった。さながらそれは、真暗闇の海上で遭遇した嵐のようだった。
ウェルテルの持つ恐ろしい言葉の魔力が僕を握りとらえ、ゆさぶり、締め上げる。あまりの激しさに、僕は船酔いした船員のように、両手で口元を押さえているしかなかった。胃の底だけではない、体のあちこちをひっくり返されているようだ。鏡を見ずとも、顔が蒼白になっているのがわかる。
なんて、激しい愛なのだろう。なんて、狂おしい愛なのだろう。
己だけでなく、周囲のすべてを巻き込んで破滅へと向かっていくウェルテルの愛。周りにいるロッテやアルベルト、下僕に至るまでが、ウェルテルという燦然と光り輝く恒星に照らされて、赤々とその身を光らせている。
僕は本を閉じ、洗礼を受ける人のように手を合わせ、目をつぶった。僕の洗礼を施しているのは、牧師でなければ聖イエスでもない。――ウェルテルだ。彼が愛すべき子どもたちにするように、僕の額にキスをしているのを感じた。
ああ、ウェルテル、ウェルテルよ。
勇敢にして苛烈、崇高で美しいウェルテルよ。
なぜ、君たちは死ねたんだ?
がしゃんと、高く耳触りな音が僕の思考を妨げた。顔をひきつらせ、音のした方向にきろりと眼を向ける。頭の隅で、硝子を引っ掻くような、不快な音が鳴り響いている。
なんてことはない。音の原因は、僕が自分で倒したインク壷だ。蓋をよく閉めていなかったのだろう。空いた瓶の口から、黒い血が堰を切ったようにあふれ出ている。投げ出された蓋は、力なく横たわっていた。息絶えてしまった、ベルナルデッタのように。
――ああ、ベルナルデッタの、葬儀をしてあげないと。
ぼんやりと考えたのは、そんなことだった。それから、慌てて自分の考えを否定する。
――違う。あれはベルナルデッタじゃない、ウェルテルだ。ウェルテルの血だ……。
何を言っているんだ。
僕は錯乱していた。ただのインクを前に、愛しい人と架空の人物を重ね、恐慌におちいっていた。
――違う、ウェルテルじゃない。ベルナルデッタでもない。あれはただのインクだ、インクだ……。
音もなく広がった血だまりが、本に浸食していく。じわりじわりと表紙をねぶり、僕に考える暇も与えずに、あっという間に白いページを犯していく。僕は恐ろしくなって、とっさにインク壷を払いのけた。壁にぱしゃりと血しぶきが飛び散り、手にねっとりとした黒い血がまとわりつく。
「これはただの本だ……。現実じゃない……」
ハンカチで必死に手をふきながら、僕はくり返し呟いた。
現実じゃない、現実じゃない、現実じゃない。
頭が割れそうに痛い。暗闇の中に、ラベンダー色のケープを羽織ったベルナルデッタの後ろ姿が見える。
ねえ、どこに行くんだい? 今日は帰ってくるんだろう? ほかの男になんか、会いに行かないで……。
鋭い耳鳴りがした。それを合図に、頭の痛みがますます強くなる。僕は汚れるのもかまわず両手で顔を覆うと、そのまま意識を失った。
気がつくと、朝になっていた。カーテンのすきまから、早朝の、まだ目覚めきっていない太陽が放つ、ぼんやりとした光が漏れている。
変な体勢で寝たからだろうか。全身が固く強張り、右足がしびれている。頭もどんよりと重く、胸が詰まるような圧迫感があった。一歩歩くたびに、不快なしびれが全身を伝う。
鏡を見ると、想像以上にひどい顔が映っていた。眼が赤く血走り、濃い溝鼠色の隈が悲愴さを添えている。顔は死人のように青白いし、インクの跡も、ひっかき傷のようになっている。使用人に頼んだ手水でインクを洗い落としても、顔色は悪いままだ。
僕は朝食もとらず、ただぼんやりと座っていた。頭に靄がかかったようだ。
どのくらいそうしていたのだろう、気がつくと、カーテンのすきまから漏れる光が、白く淡い、昼のそれになっていた。規則正しいノックがして、フランコが入ってくる。
「失礼いたします、ニコロ様。グロンキ伯爵未亡人からの言付けです」
「グロンキ……?」
「階下で従者が返事を待っておりますが、いかがいたしましょう?」
すっかり忘れていた名が、僕の頭を覚醒させる。
グロンキ伯爵未亡人? ベルナルデッタの、心中相手の妻? あんなに僕を避けていたはずなのに、どういう心変わりだ? しかも、従者を階下に待たせているとは、いったいなぜ?
疑問は山ほどあった。
しかし、ごちゃごちゃ考えていてたところで解決するわけじゃない。僕はフランコから手紙とペーパーナイフを受け取ると、素早く封を切った。
言付けには、簡素に「大事なお話がありますので、都合のいい日に我が家へお越しいただけないでしょうか。いつでも、今日でも結構です」と書かれている。
さっぱり事情が飲み込めない。大事な話とはなんなんだ? これ以上、頭が痛くなるような話題でなければいいが……。
僕は眉を寄せて、しばし考え込んだ。
僕と未亡人の共通点、それは、ベルナルデッタとグロンキ伯爵の無理心中にほかならない。そう思ったとたん、ずくりと心が痛む。昨夜味わった苦しみが、逆流してくるようだった。
――来いと言うのなら、今日行ってしまおう。この気持ちを、何日も抱えていたくない。悪いことが起きるのなら、すべて一度に起こってしまえ。
僕は、半ば自暴自棄になっていた。
「フランコ、出かけるぞ。向こうの従者には、いますぐ行くと伝えてくれ」
「承知いたしました」
使用人の手も借りず、乱暴に髪を整え上着をひっかけると、僕は家を出た。
先導されてついたグロンキ伯爵未亡人の邸宅は、非常に豪奢でありながら、どこかうら寂れた雰囲気があった。一瞬ベルナルデッタの家を思い出したが、あれともまた違う。人の息吹は感じられるが、方々からため息が聞こえてきそうな、悲しみに満ちているのだ。使用人たちの声音や表情までが、心なしか暗く見える。
これが、主を失った屋敷の姿なのか?
僕はこの二年間、自分のことに精一杯で、グロンキ伯爵未亡人の気持ちなど考えたこともなかった。だが、この事件では彼女が一番の被害者なのだ。ベルナルデッタによって、突然自分の夫を奪われた罪のない女性。その悲痛を、この屋敷がありありと語っていた。
「わざわざお呼び立てして申し訳ありません。本当はわたくしがうかがわなくてはいけませんのに、体調がすぐれない日が多くて」
そう言った未亡人の顔色は、確かにあまりよくなかった。ふくよかで色白、本来なら女性らしい豊満さを感じられる風貌にも関わらず、いまの彼女からはまったく生気が感じられない。もっとも、それは僕にも言えることだろう。むしろ顔色の悪さにかけては、僕の方が輪をかけてひどいかもしれないな。
「ですが、貴方もあまり顔色がよくなさそうですわね……? ごめんなさい、わたくしが急くようなことを言ってしまったから」
「いえ」
僕は安心させようと、とりあえず微笑んだ。目の前の未亡人は、ずいぶん疲れているように見える。無暗に責め立てるつもりはなかった。
しばらくの間、どちらも何も言わなかった。僕は未亡人が何を言うのか待っていたし、彼女は彼女で、心の準備をしているのだろう。やがて、未亡人はふぅ……と覚悟を決めたような長いため息を吐いた。自然と、僕の体に緊張が走る。
これから、大事な話が始まるのだ。
「……貴方には、いつか打ち明けなければいけないと思っていました。いいえ、すぐにでも言わなければいけなかったんですわ……」
そこからまた、しばしの沈黙。僕は辛抱強く続き待つ。
やがて彼女は無言で手を叩くと、使用人を呼び寄せた。やってきた使用人のトレイには、一通の手紙が乗せられている。そのまま手紙は、未亡人ではなく僕に運ばれてきた。
封に描かれている名前を見て、僕の心臓がぎゅっと縮まる。
「……これは?」
震える声でたずねる。
差し出された手紙に書かれた、“Nicolo`”という名の“o`”が、右斜め下ではなく、垂直にはねられている。僕はそんな書き方をする人をよく知っていた。……ベルナルデッタだ。
僕が手にとるのをためらっていると、未亡人が空を見つめながら話し始めた。僕ではない、遠い彼方にいる誰かに語りかけているようだった。
「あの日、わたくしは誰よりも先にあの別宅についておりました。そこで見たのは恐ろしい、本当に恐ろしい光景でしたわ。できるなら、もう二度と思い出したくない……」
一度そこで言葉を切る。その恐ろしい光景が、いまも彼女に襲いかかっているのかもしれなかった。
「……けれども、わたくしを本当に縛っているのは、そのことではありませんの。……手紙ですわ。貴方がいま見ていらっしゃる、手紙。それが、わたくしを縛りつけます」
僕は彼女の言葉を聞きながら、それに視線を落とした。黒のインキでかかれたニコロという名が、無言でこちらを見つめている。
「それは部屋の机に置いてありました。本当は、見ずに貴方に渡せばよかったのです。……でも、許せなかった。さんざん好き勝手したあげくにわたくしを残して殺された夫も、人の夫を無理矢理連れて行った上に、最後に手紙を残して心情を訴えようとする、貴方の妻の傲慢さも。だから、勝手に見たのです。……その罰があたりましたのね。あんな手紙、見なければよかった。そうすればわたくしは、永遠に被害者でいられたのに」
心臓が早鐘のように鳴っている。
グロンキ伯爵未亡人は、何を言っているんだ?
「ずっと隠していて、本当にごめんなさい。いま貴方に返します。あの日、貴方の妻――ベルナルデッタが残した、遺書を」
闇色の目がまっすぐ僕を見た。地獄の谷からのぞき込んでくるような、絶望と悲しみにふさがれた目だった。
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