物ごころついた時から自分が望む結婚は出来ないと知っていた。
 上に二人の兄を持つ、三番目の王子。長男がいなくなった時の補欠の役割すら与えられることのない僕は、政略結婚の手駒以外の何物でもない。だったらせめて妻になる人は顔の美しい人か、もしくは気立てのよい人であればいいとだけ長年願い続けてきた。
 そんな僕のとなりで婚礼衣装に身を包んだ妻となる女性は固く目をつぶったまま、顔を死人のように強張らせていた。
「誓いのキスを」
 聖人を絵に描いたようなにこやかな牧師に促されて、国民という観衆が見守る中で僕は義務的なキスをした。無責任な歓声が青い空に吸い込まれていく。


「本当に、わたくしでよかったのでしょうか」
 暗闇の中でネグリジェに身を包んだ彼女は、目をつぶったまま血の気のない顔を不安そうに浮かび上がらせていた。
「もちろんだよ。ルミエール」
 言葉とは裏腹に感情のこもらない声で返してやると、何かを察したのか彼女は口をきゅっと結んでそれきり喋ろうとはしなかった。
 ルミエールは僕の生まれた国から間に二つ国を挟んで存在する小国の王女だ。上にも下にも他に兄弟はおらず、女性の王位継承を認めているこの国の正真正銘の跡取りとなる王女。それなりに整った容姿に、控え目で穏やかな性格と聞く。そこに持参金としてまるまる一国がついてくるのであれば、通常なら引く手あまたなのだろう。
(通常ならね)
 くっと目の前で僕が意地の悪い笑みを浮かべている事にも、ルミエールは固く目をつぶったまま気づいていない。
 ルミエール。どこかの国の言葉で光を意味するその名前は、皮肉にも生まれながらにして目の見えないこの王女に授けられた名前だ。はたして彼女に光なんて概念はあるのだろうか、なんて考えてしまうのは、初夜にも関わらず気が荒んでいるせいだろうか。
 美しくて気立てがよいというのは、全て健康の上になりたつ事柄だと今さらながらに理解したのは彼女との婚姻を聞かされた時だ。
 一度どこかの催しで会っただけの、ほとんど親交もないこの王女と僕が結婚する事になるなんて夢にも思わなかったからね。唯一の救いは、これが彼女の父王が亡くなるまでの期限付きの結婚だと言うこと。彼女を溺愛する父王さえ亡くなってしまえば、盲目の王女を陥れて離婚する事など容易い事だ。父にはそれまでに子を一人つくってさえおけばいいと言われたが、それに従うつもりはなかった。僕の出来る唯一の反抗だった。
「今日は疲れただろう。もう寝よう」
 そう促すと彼女は一瞬体を強張らせたが、僕にその気がないと分かると今度はどうしていいかわからないようだった。それに声をかけることなく僕は寝入った振りをする。どうせいつか離縁して他人になる妻に、必要以上に気遣ってやるつもりはなかった。
 こうして表面上は穏やかな、けれどその実、体も心も触れ合う事のない婚姻関係が始まった。


「みなさん見て、この素敵な葡萄色のドレス。なんて素敵な色合いかしら」
 オウムのような金切り声を張り上げて、女が一人広間の真ん中に立っていた。傍には取り巻きと見られる女たちが、これまた熱帯雨林の鳥のように色鮮やかなドレスに身をつつみ、顔を寄せ合って笑い合っている。
「あらあ、ベランジェール伯爵夫人のドレスだって美しい空色ですわ」
 取り巻きの一人が唇を歪ませて楽しそうに笑った。
 僕は隣に座るルミエールを見た。彼女はいつも通りかすかな笑みを浮かべたまま、ただ黙っていた。

 婦人たちが夜会でドレスの色を褒め合う事は特別変わった事ではない。しかし広間全体に聞こえるような大きな声でそれを話すのは無神経すぎる、と僕は顔を曇らせた。何せ彼女らの主人は目が見えないのだ。
 もしかしてこの王女は、僕にだけでなく、家臣である貴族たちにまで馬鹿にされているのか?
 そんな僕の予感は、すぐに確信へと変わる事になる。
 手洗いに行くために一瞬席をはずしてもどってきた先で見たものは、先ほどの伯爵夫人が彼女に”誰かが飲み干した果物の残骸入りのグラス”を渡しているところだった。ためらいながらも口元へそれを運ぼうとする彼女を目にした時、僕は気がつけば大股で歩み寄ってその細い手からグラスを叩き落していた。ガラスが砕け散る音に広間の目が一斉に僕たちに注がれる。
「これはどういうつもりかな。ベランジェール伯爵夫人?」
 目だけは笑っていない微笑みを浮かべながら、わざと名前の部分を強調して言ってやると伯爵夫人は目を白黒とさせて言い繕った。
「ご、ごめんなさい。あたくし自分のものと間違えて渡してしまって」
 それでも僕が冷たい目で見下ろし続けていると、夫人は大きな鼠のように体を丸めてみっともなく逃げ去った。
「君はいつもああいう事をされているのか」
 怒りの籠った声だった。王女である彼女を馬鹿にした貴族たちにも、馬鹿にされる彼女自身にも腹が立っていた。
「いつも、というわけではないんです。ただ今日は、お父様がいない代わりに貴方がいるから大丈夫かと油断していました。……ごめんなさい」
「どうして君が謝るんだ」
 侮辱されても怒る事なく、それどころか申し訳なさそうに謝る彼女に僕はますます腹が立った。本来だったら王族を侮辱する事は死罪にもあたるというのに、この王女はまるでそれが自分の非であるかのように振る舞う。
「君がそんな態度だから、納税もごまかされるんじゃないのか」
 僕が口にした言葉に、彼女の顔色がさあっと青くなった。
 最近父王の代わりに、彼女が執政を行っている事がある。僕はあえてそれを手伝う事なく、たまに覗いている程度なのだが、どうにも納められている税が少ない事がある。それを訊ねると彼女は首をかしげていつも通りだと言う。気になって影から隠れて見ていたらなんてことはない。口上人が数字を上乗せして彼女に読み聞かせていたのだ。恐らくどこかの貴族に買収されているのだろう。即刻首を切って代わりの者を置いたが、問題はそこではない。根本的にこの王女は馬鹿にされている。それは一国の王女、ひいては女王となる人物にとっては致命的な問題だった。
 しょうがなく、僕は村に迷い込んだ白鹿のように所在なく佇む彼女の隣で、睨みを利かせる狼の役を請け負うことになった。それが数年を共にする僕から彼女へのせめてものはなむけだろう。


「それでは今期の麦の輸出量はこれで決まりということで」
 狭い執務室の中にまだ年若い大臣の声が響く。
「ええ、それでいいわ。……あ、それから」
 思い出したように彼女が顔をあげた。
「お医者様を呼んでください」
「医者?」
 思ってもみなかった単語に眉をあげたのは僕だけじゃない。大臣がいぶかしむように彼女を見つめている。
「どこか体調が優れないのですか」
「ええ、私ではなくイアン様が」
「私?」
 突然出てきた自分の名前に一番驚いたのは僕自身だった。大臣に、それから彼女の侍女までもが僕を見た。
「誰かと勘違いしていないかい。私はこの通りなんともない」
 僕がそう言っても、彼女は静かに微笑んだだけだった。


「ルミエール」
 医者を呼びに侍女がいなくなった寝室で、僕は椅子に腰かけている彼女を呼んだ。
「どうして分かったんだ?」
「……音が、いつもと違いましたから」
「音?」
 尚も疑問を浮かべる僕に説明するように、彼女はゆっくりと言った。
「あなたの足音がいつもより少し重かったんです。それに呼吸も、いつもより少し籠っている気がして」
 僕は驚いて何も言えなかった。
 確かに今日は朝から体が重かったし、少し息苦しかったのも事実だ。そうは言っても両方とも些細なことで、自分でもあまり意識していなかった。
「驚いたよ。君はすごいな」
 僕が褒めると、彼女はわずかに頬を赤くして俯いた。
 結局、その日の夜から僕は熱を出して寝込む事になる。

 家臣たちも寝静まった夜中、熱で朦朧としている僕の顔に彼女の冷たい指が触れる。額に濡れてひんやりとした布が乗せられた。
「すぐに治ります。それまで私がずっとおそばについています」
 おぼろげな意識の中で、優しい声と共にさらりとしたハンカチが顔にあてられる。ゆっくりと頬に触れるハンカチに、汗と一緒に体の不快感も吸い取られたような気がして、いつの間にか僕は深い眠りに落ちていた。


 熱を出して三日目の朝、僕はまだ少し火照りの残る体を起こしてベランダに出た。
「イアン様! イアン様!」
 久しぶりの外の空気を楽しんでいると、寝室から悲鳴のような彼女の声が聞こえてくる。僕は慌てて寝室に戻った。
「私ならここにいる」
 ベッドの上を必死に手探りで探っていた彼女は、僕の声を聞いてほっとしたようだった。
「まだ、お休みになってください」
 さっきのうろたえぶりが嘘のように、はっきりとした声音で言い切られ、結局僕は彼女の言うとおり再びベッドに戻ることになった。傍らでは彼女が心なしか嬉しそうに林檎の皮を剥いている。
「器用だな」
 目が見えない事を忘れさせるくらい滑らかな手つきに僕は素直に感心した。
「練習したんです。どうしても出来るようになりたくて」
 それきり僕も彼女も黙ってしまう。部屋の中には林檎を剥く控えめで優しい音だけが流れていた。
「……どうして私だったんだ?」
 突然の質問に、彼女が不思議そうに顔をあげる。
「求婚を申し込んでいたのは、私の家だけじゃなかったんだろう。どうしてその中から私を選んだ」
 ずっと、気になっていた事だった。
 彼女が結婚相手を探していると聞いた時、同時に既に多数の者が名乗りをあげているとも聞いていた。父の一存で僕もその名乗りをあげた一人になっていたが、どうせ選ばれる事はないと高を括っていた。それが蓋を開けてみれば、彼女の隣に立っていたのは他ならぬ自分自身だった。他に条件のいい者などいくらでもいただろうに、どうして自分だったのか、不意に聞いてみたくなったのだ。
「……アルブラハでのお茶会を、覚えていますか」
 林檎を剥く速度を落として、彼女はためらいがちに話し始めた。
「あの頃の私は、呼ばれれば義務的に出かける事はあっても、会場の隅で一人俯いている事がほとんどでした。自分の噂を聞くのも怖かったし、不埒な目的を持って近づいてくる男の方も怖かった」
 彼女の言葉とともに脳内に蘇ってくる、年に一度行われる春の茶会のこと。そしてその隅で、視線から隠れるようにして体を丸めて座っている彼女のこと。
「どなたが挨拶にいらしても、とにかく怖くて、きちんとした挨拶も出来なかった」
 僕が挨拶に行った時も、彼女は顔をあげることすらせずにもごもごと言うばかりだった。周りからは、目だけではなく頭も駄目なのではという嘲笑すら漏れていた。そんな事を言う周りにも、言われる彼女にも頭がきて、気がついたら僕は彼女に怒っていた。
「”王女なら王女らしい振る舞いをしろ。自国民に恥をかかせるな”と貴方に言われた時は、とても驚きました。……でも、その通りだとも思いました。今でもまだ立派な王女とは言えません。でも貴方があの日私をしかってくれなかったら、きっと今も情けないままでした。ありがとうございます」
 彼女がそう言うのを僕は気まずい思いで聞いていた。あの時カッとなって言った事に礼を言われるなんて夢にも思っていなかったからだ。
「後から侍女に貴方の名前を聞いて……それからずっと気にしていました。だから求婚者の中に貴方の名前があった時は、ただ嬉しくて」
 頬を赤く染めてはにかみながら彼女は言った。一方、僕の気まずさはますます増していた。純粋に僕との結婚を望んでくれた彼女に対して、僕の動機はあまりにも不純すぎた。それが政略結婚の常だとは分かっていても、彼女の微笑みは眩しくて、僕は何も言えなかった。
「だから、一瞬だけでも貴方と夫婦になれるのなら、私はそれで満足でした」
「一瞬?」
 その言葉に、僕は眉をひそめて顔をあげた。それではまるで彼女が僕の結婚の目的を知っているようではないか。
 美しい装飾の施された果物ナイフが静かに林檎に沈み込む。
「……イアン様は、いずれ私と離婚する予定だと聞いております」
 さく、と林檎が切りだされて皿に乗せられた。
「そういう噂を聞くようになったのは結婚した後です。でも、それを聞いて納得しました。どうして私なんかを選んでくださったのか、ずっと疑問に思っていましたから」
 本来ならそんな噂、と一蹴すればすむ事なのかもしれない。けれど僕は何も言えなかった。彼女が取り乱すでもなく、ただ淡々とその事を受け止めている事が不思議だったからだ。
「私はそれでも構いません。王族の結婚なんて利害が絡んで当たり前ですから。……でもその前に一つだけ教えてもらえませんか」
 そう言って彼女は顔をあげた。長い睫毛が太陽の光を受けて金糸のように輝いた。
「イアン様の髪は、瞳は、どんな”色”をしていらっしゃるのですか」
「色?」
 予想外の質問だった。彼女が恥ずかしそうに微笑む。
「侍女たちがよく、イアン様は金の髪に青い瞳で、本当に物語に出てくる王子様そのものだと話していましたから」
「とは言っても」
 僕は腕を組んだ。目の見えない彼女に色の説明など不可能に思えたのだ。その事を察したのだろう、彼女が俯いてやっぱり無理ですよね、と言いかけたところで僕は口を開いた。
「触ってみる? 僕の顔。色を説明するのは無理だけど、形なら」
「そんな。失礼になってしまうのでは……」
 そう言ってためらう彼女の手からナイフと林檎をとりあげると、僕は強引に自分の顔に彼女の両手を押しあてた。
 一瞬ためらってから、おそるおそる、といった様子で、彼女の細い指がゆっくりと肌を伝う。確かめるように唇をなぞり、鼻にふれ、睫毛を撫でていく。愛撫のようなその指先がくすぐったくて、またどうしようもなく恥ずかしくて目を瞑っていた。しばらくして僕が瞼を開けると、驚いたことに彼女は顔を真っ赤にしていた。
「ルミエール」
 それが面白くて思わず名を呼ぶと、彼女ははっとしてから手を引っ込めようとする。その手を掴んで僕は笑った。
「そんなに真っ赤にならなくても」
「真っ赤……?」
「頬が熱くなっているだろう。林檎みたいな色だ」
 林檎、と呟いて彼女は不思議そうに自分の頬に手をあてた。
「私の頬と、林檎が同じ色なんですか」
「それから」
 と言って僕は手を伸ばし、絹糸のようにしなやかな彼女の髪に触れた。
「僕の髪は金色だけど、君の髪も同じ金色なんだよ」
「同じ……」
「そう、同じ色だ」
 彼女が僕を”見た”。それから花が綻ぶように、ふわり、と微笑んだ。
「嬉しい」
 そう吐息のようにこぼした時、気がつけば僕は彼女を抱きしめていた。腕の中の彼女は思っていたよりも華奢で小さく、そしてローズのほの甘い、優しい匂いがした。
 それを吸い込みながら、今度父から手紙が来たら破ってしまおうと思った。今度こそこの盲目の王女の夫となるために。
 まだ林檎のように顔が赤い彼女を引きよせる。
 二度目のキスは、柔らかく暖かかった。

Fin.



 覆面作家企画5「色」参加作品

 2011,08,27執筆 / 2011,10,12 サイト公開

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 ※ 途中でイアンの一人称が変わっているのは誤字ではありません。

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