「猫。今日はバレンタインだって知ってた?」
 きびしい寒さもわずかにゆるみ、あたたかい日光が気持ちよくさしこむ日だった。午前の診察が終わり、水をはった洗面器で手を洗っていた猫に満面の笑みを浮かべた鼠が言った。
「バレンタイン」
 濡れた手を拭いながら、猫はその言葉を呟いてみた。
「バレンタイン……」
 どこかで聞いたことがあるような、ないような。
「……その様子だと、知らないみたいだね」
 猫が素直にこくりと頷くと、鼠はさして驚いた様子もなくズボンのポケットから包みを取りだした。
「今日はね、愛の誓いの日なんだ。恋人にプレゼントを贈って自分の気持ちを伝えるんだよ」
 そう言いながら鼠は包みのリボンをといた。ふわりと開かれた布の中から、つやつやと輝くチョコレートがあらわれる。
「最近街ではチョコレートが流行っているみたいだったから、僕も真似をしてみたんだけど」
 まっしろなミルク色、優しいココア色、艶のあるブラウン色。同じチョコレートでもひとつひとつ違う色合いを、猫は興味深くみつめた。
「なかなか、おいしそうでしょ?」
「うん。……でもわたしたち、もう恋人ではなく夫婦だからこういうことする必要は、むぐ」
 真面目な顔で言おうとした猫のくちに、チョコレートが押しこまれる。やったのは勿論鼠だ。
「いいのいいの。愛を誓う日、だから」
 猫は不満げに鼠を見ながら、むぐむぐと口を動かした。ひんやりしたチョコレートが猫の口のなかでゆっくり溶けていく。濃厚な甘さが、じわりとしみこんで心地良かった。午前の疲れが全て上塗りされていく。
 無表情の中にも微かな喜びが見える猫を、鼠は楽しそうにみていた。
「……いいなあ。やっぱり僕も、欲しいな」
 ぼそりと呟かれた言葉に、猫は鼠を見た。溶けかけのチョコレートをこくりと飲みこみ、「来年は、わたしがあげる」と言おうとして、口をふさがれた。
 ぬるりと侵入してきた暖かい舌が、まだチョコレートで濡れている舌に絡みつく。頭も腰もいつの間にかがっちりと押さえこまれ、逃げることも驚くこともできないまま、激しく口をおかされた。甘い唾液に、頭の芯がしびれていく。
「……! ……!」
 このままでは、腰が抜ける。猫がそう思ったころになってやっと、鼠が口を離した。
「うん、やっぱりおいしいね」
 ごちそうさま、と朗らかに言いながら鼠が足取り軽く部屋から出ていく。残された猫は、へなへなとその場に座り込んだ。鼠の出ていった扉を茫然と見つめたまま、言葉もでないようだ。
 おほん、と咳払いの音が部屋に響いた。
 咳払いの主は一部始終をすっかり見てしまったしなびたきゅうりのような医者だ。咳払いにも反応しない猫を見て、医者はなんとも言えない渋い顔をした。
 猫という名前の娘を追いかけてやってきた弟子の青年は、優秀なくせにどこででも”情熱的に愛を示そうと”する。それこそ医者の前だろうと患者の前だろうと、おかまいなしだ。
 全く今の若者は……。心の中で呟きながら医者は立ちあがった。春も近くなった、ある日のことだった。

Fin.






2,14 St.Valentine's day Short Short.


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