男が侵入者に気付いたのは、既にその太い首に深々と二本の針が刺さったあとだった。
 呻きすらこぼす暇もなく男の体が宙に舞い、どうと音を立てて倒れる。胸元のポケットから飛び出した懐中時計が絨毯の上に音もなく転がった。
 急速に暗くなっていく視界の中で男が最後に見たのは、誰かの白い足首だった。その足首が誰のものか考える前に、男の意識はぶつりと途切れた。それが男の人生の幕切れだった。

 事切れて、ただの虚しい肉の塊となった男を、白い足首をした少女がみつめていた。少女は屈んで男の首から長い針を引き抜き、赤々と濡れた血を拭き取った。次いで大きく開いた袖口から針をしまい込む。それで少女の今日の仕事は終わりだった。
 部屋の中を確かめるように見渡してから少女はベランダに出た。綺麗に手入れされた庭を眺めながら深く息を吸い込むと、こもるような甘い匂いが、かすかな痺れと共に少女の鼻の奥を刺激した。金木犀だろうか。誘い、嘲笑うかのような甘さだ。少女はこの匂いはあまり好きではない。
 匂いから逃れるように空を見上げると、大きな丸い月が浮かんでいた。雨の降りやすいこの国にしては珍しく晴れが続いていたからだろう。満月は塵のベールをまとってやわらかく微笑んでいる。同業者ならきっと嫌がるだろう満月の夜も、少女にとってはとるに足りないことだ。暗くても明るくても失敗などしない。それが少女だった。
 振り返り、入り込んできた窓を素早く閉める。硝子越しに見えた部屋の中では、男が死んでいること以外なんの変わりもない。少女は黙ってその場から離れた。満足感も達成感も、何もなかった。
――明日はきっとまたいつものように新聞に載るのだろう。少女が殺した男のことが、そして男を殺した暗殺者のことが。けれどそれも少女にとってどうでもよかった。
 暗闇の中を縫うように駆け抜け、辺りを見渡す。寝静まった街中で、赤みがかったレンガの建物が立ったまま死んだ巨人のように佇んでいた。辺りに誰もいないことを確認してから、少女は体をしならせて、たん、と住宅街の塀の上に躍り出る。月明かりを受けて、顎先で揃えられた黒髪が妖しくうねった。裾に繊細なフリルをあしらった、黒にも紺にも見えるベルベットのワンピースがゆるやかに少女にまとわりつく。

 少女は組織では黒猫と呼ばれていた。
 前髪を目の上できっちりと切り揃えた黒のボブカットに、暗闇で光る金の瞳。小柄な体を闇に隠して忍びより、猫が一瞬でその鋭い牙を獲物の体に喰いこませるように、少女は毒の針を音もなく標的の首に埋めた。そうすると彼らは、自分が死んだことにすら気付かないうちにただの死体となった。それで全ては終わった。
 この暗殺者としては恐ろしく優秀な少女は、しかし所属する闇組織の中ではひどく気味悪がられていた。いつも無表情で誰とも口を聞くことなく、淡々と人を殺していくまだ幼い少女。その姿は同じ暗殺者をもぞっとさせる何かがあるらしく、いつも化け物を見るような目で見られている。けれど少女本人はと言えば、主人の指示通りに人を殺して金をもらえればそれでよかったし、周りからどう思われようと気にしなかった。黒猫と呼ばれることすらどうでもよかった。何と呼ばれようが、少女は少女だった。

 トゥシューズのような薄い靴に包まれた足が軽やかに振り上げられる。この薄い特殊な靴のおかげで、少女は猫のように音もなく歩くことが出来た。
 塀の上で踊るように歩きながら、少女は夜の濃密な空気に手を沿わせた。指先に感じるゆるやかな流れに身を任せ、くるりくるりと流される花のようにまわり続ける。
 人を殺すことに何かを感じたことはない。少女にとって人を殺すことは、蟻を踏み潰すことと同じだ。
 だからこのバレエを真似たでたらめな踊りも何か意味があるわけではない。ただ今日はあまりに月が綺麗だったから、と思う。
 あまりに月が綺麗だったから、踊ってみたくなっただけなのだ。
「ねえ!」
 突然少女の世界を、情緒のかけらもない子供の声がぶち壊した。少女が黙って振り向いた先の豪華な屋敷の一角。おそらく屋根裏部屋であろう天窓から、子供が青白い顔を突き出していた。
 子供はみんなお喋りだ、と少女は思う。
 ――昨日、塀の上に黒猫がいたんだ。
 まるで愛らしい妖精でも見たかのように瞳を輝かせて母親に報告する彼らは、少女にとって消すべき目撃者以外の何物でもない。例えこの子供がそうではなくとも、可能性があるだけでも同じこと。ならばすることはひとつだった。
 たん、と塀を蹴る軽い音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には少女は子供の目の前に立っていた。透き通る子供の青い瞳が一瞬見えたと思う暇もなく、針を隠した右手が振り下ろされる。子供を殺したことはなかったが、なんのためらいもなかった。可哀想だなんて気持ち、生まれてこの方抱いたこともない。
「君は白猫みたいだね!」
 その時、針が細い首を突き抜けるよりも早く、子供の言葉が少女を突き抜けていた。少女は咄嗟に針を指で止め、右手を振り上げたまま固まった。飛び出しかけた針の尖端が、月に照らされて禍々しく光っている。一方子供はと言えば、自分が殺されかけていることには少しも気付かずに、硝子玉のような瞳を細めてくったくなく笑っていた。
「うわ! ごめん何か気にさわった!?」
 一瞬遅れてからやっと子供は少女の右手と針に気がつき、驚いてあとずさった。途端、ごんと鈍い音がして、子供が頭を押さえてうずくまる。頑丈な天窓の枠にぶつけたらしい。その間少女は自分でもわけがわからないまま、ただ戸惑ったように子供を見下ろしていた。
 やがて痛みから立ち直った子供が、目尻に涙を浮かべながらも気丈に笑った。薄い青の瞳が、涙で水面《みなも》のように揺らめいている。
「ねえ猫さん。そんな物騒なものはしまってさ、僕の部屋に寄っていかない?」
 その時どうして頷いたのかは今になってもわからない。ただ気がつけば少女は頷いて、狭い屋根裏部屋へと体をねじ込ませていた。

 屋根裏部屋は想像以上に狭かった。小さなクローゼットに小さな机。さらに粗末なベッドに子供が腰かけ、窓の傍に少女が立つと、それだけで部屋はいっぱいになった。動物小屋みたいに狭くて、ほこりっぽくて、おまけに暗い。ここは外から見た屋敷の豪華さとは切り離されているようだった。
 そうやって部屋の中を確かめながらも、少女はどうして自分がここに立っているのかわからず落ち着かなかった。そんな少女にはお構いなしに、子供は嬉しそうに口を開く。
「ここに僕以外の誰かがいるなんて、初めてだよ」
 隣でよければすわる? とにこにこと聞かれて首を振る。部屋の中で座れる所はベッドだけだったけれど、少女は座る気などなかった。それよりもひとつだけ聞きたいことがあった。少女の動きを止めた、あの言葉。
「どうして白猫なの」
 久しぶりに喋ったせいで、少女は思っていた以上にうまく喋れなかった。喉に引っかかってみっともなくかすれた声に、子供がきょとんとして首をかしげる。
「どうしてって――君が白猫だったから」
 返ってきた期待外れの答えに、少女は聞いたことを後悔した。
 黒い髪に黒い服、黒か白かと聞かれれば間違いなく黒だとみんなが答える中で、この子供だけは少女を白だと言った。
 不意にその理由が聞いてみたくなっただなんて、今夜は随分感傷的になっている。こんなことなら、やはり黙って殺すべきだったと思う。こんな子供、針を使う必要すらない。
 無言で、瞳に静かな殺意を抱いて近づいてくる少女に気圧されたのか、子供は慌てて訂正した。
「だって君、暗闇の中で白く光っていたんだよ」
 その時には既に少女の白い指が、子供の首に食い込んでいた。
「月の光を受けて、君の真っ白な肌が光ってた」
 だから白猫だと思ったんだ、と子供は笑った。首に指を食い込ませたまま、怯えるでもなく、驚くでもなく、ただ笑っていた。
 不意に少女の頭の中に映像が蘇る。
 赤く血に染まった針、土気色の虚ろな死体、組織の冷たい白い目。そしてそのどれとも違う、子供の澄んだ青い瞳。
「……わたしが白猫なら、貴方は灰鼠ね」
 諦めたように手を降ろしながら言った。その口元がかすかに笑っていたことに少女は気付かない。
 少女は改めて子供を見た。子供は灰をかぶったようにくすんだ金髪に、これまた霞みがかったような薄い青の瞳をしていた。着ているパジャマだってすすけて色あせている、やせっぽっちで見ずぼらしい、無力な子供。おそらく使用人の子供なのだろう。
「じゃあ、君が猫で、僕が鼠だね」
 みすぼらしい子供は笑いながら手を差し出した。少女がためらっていると、強引に手を掴まれて握手をさせられる。子供の手は小さいのに暖かくて、力強かった。
「よろしく、猫」
 その日から少女は猫になった。



 猫には最近楽しみがある。
 それは楽しみと言うにはあまりにささやかなことだった。けれど猫にとって、生まれて初めての経験だった。
 頬に当たる風の冷たさが、冬将軍がもうすぐやってくることを知らせていた。遠くからでも感じる将軍の冷たい吐息にぶるりと身を震わせ、猫は目当ての窓に体をねじ込ませた。
「鼠」
 あがった息を悟られないよう胸の中に押し込んで、ぶっきらぼうに名前を呼ぶ。そうすると、ベッドに座って本を読んでいた鼠が顔をあげることを知っていた。
「こんばんは、猫」
 頼りないろうそくに照らされながら鼠がにっこりと笑った。普段は何も変わった所のない鼠の口は、笑う時だけとても大きくなる。それを見ると、なぜか猫はいつもほっとした気持ちになった。
 出会いからひと月が経っていた。その日の猫は寒さをしのぐために、分厚くて真っ黒い、夜そのもののような外套を羽織っていた。
「寒かっただろう、こっちにおいでよ」
 相変わらずすすけてよれよれになったパジャマを着たまま、鼠が自分の隣を叩いた。猫は重い外套を脱ぎ捨てて、ためらうことなく鼠の隣にもぐりこむ。小さなベッドはそれだけでぎしりと悲鳴をあげた。すぐに鼠が本を置く音がしたかと思うと、ふわりと体を包まれた。
「すごく冷えてる」
 耳の傍から聞こえる声がくすぐったい。逃げるようにもぞもぞと体を動かして、猫は自分の冷たい両手で鼠の頬を包んだ。
「鼠も同じくらい冷えてる」
 小さな屋根裏部屋には暖房も何もない。何枚も重ね着をして寒さをしのいでいても、鼠のむき出しの顔だけはいつも冷たかった。
「でも猫が暖めてくれるでしょ」
 当たり前のことのように言い切って、鼠は大きく口を開けて笑った。細められた瞳と、くしゃくしゃの笑顔に心を見透かされた気がして、猫は悔しくてばちんと鼠の頬を挟んだ。「痛いよ!」と鼠が叫んだのを見て少し満足する。それから二人で顔を見合わせて、犬の子が身を寄せ合うようにぴったりと抱き合って眠った。時折鼠の手が伸びてきて、猫の黒髪をさらさらと梳いた。最初の頃は髪に触れられることを嫌がっていた猫も、鼠があまりにもしつこくさわってくるものだから最後にはとうとう根負けしてしまった。そうしているうちに鼠の手に安堵感を覚えるようになり、あとはもうされるがままだった。
 目をつぶって、鼠の優しい手を感じながら猫は眠る。眠って、夜明け前に猫だけが一人起きだす。誰にも見られないよう、見つからないよう、夜の闇が姿を隠してくれるうちに猫は立ち去る。そうして朝になって鼠が起きる頃には、隣はすっかり冷たくなっているのだった。
 仕事を変わらず続けながらも、気が向いた時だけ鼠の小さくも温かいベッドにもぐりこむ。それが猫の最近のお気に入りだった。

 時折鼠は激しく咳をした。喘息なのだと言う。特に今の時期はつらいらしく、咳と一緒に鼠の命も抜け出していくようで猫は落ち着かなかった。
 猫は人の命を奪う仕事をしている。なんの感情も抱かずに、善悪なんて考えたことすらなく、ただ奪えと言われて奪った命だ。ためらいも憐れみも抱いたことはない。なのに鼠の命が少しでも減るのは嫌だった。何が違うのかと考えてみたけれど、猫が奪った命と鼠の命の違いがなんなのか、どれだけ考えても猫には答えは出なかった。
 答えは出なかったけれど、そんな時猫は鼠の命が抜け出してしまわないよう、仕事で使うよりも短い針を鼠の体にとんとんと打ち込んでやる。
 見よう見まねで覚えた知識だったけれど、そうすると本当に驚く程楽になるらしかった。
「猫は、どこでそんなことを覚えたの」
 驚き、それ以上に尊敬で瞳を輝かせた鼠に問われると、猫は黙っていることが出来なかった。組織の人間にはどんなに汚い暴言を吐かれても眉ひとつ動かさないと言うのに、なぜか鼠にだけは喋らずにはいられない。
「老師《ラオシ》が、教えてくれたの」
 言いながら、猫は久しぶりに昔のことに思いをはせた。

 猫の生まれた家は貧しかった。両親は貧しいだけでなく、暴力を振るう人だった。
 スプーンを落としては殴られ、髪の色が気持ち悪いと言われては殴られ、しまいには雨が降っているからと殴られる。そういう家だった。
 そのうち猫はとっくに忘れてしまった笑い方と同じように、泣き方も忘れた。泣きもわめきせずにただ黙ってみつめる猫を、両親は可愛くない子だと言ってより一層ひどく殴った。殴ったあとはお仕置きと称して外に放り出される。それが猫の家だった。
 いつものように家から追い出され、顔を赤黒く腫らせてうずくまっていた猫に、ある日極東の出身だというしなびた老人が手を差し伸べた。老人ははした金――と言っても猫の両親にとっては大金だった――で猫を買い、孫を可愛がるように猫を可愛がった。老人は自分のことを老師と呼べと言って、猫がその通りにすると手を叩いて喜んだ。全身しなびてしわしわのきゅうりみたいなのに、とびきり陽気で、とびきりうさんくさい老師。そんな老師と一緒に各地を歩き回りながら、猫は積み木の代わりに老師の針と薬で遊んだ。時間が経っても猫の表情が戻ることはなかったけれど、あの時が人生の中で一番安心して過ごせる日々だったと猫は思う。
 そんな二人の旅は、老師が突然の病に倒れるその日まで続いた。
 叩いてもゆすってもぴくりとも動かない老師の前で途方にくれていた猫。見かねた近隣の住民たちが手を差し伸べ、無縁墓地に老師を弔ってくれた。やがてもう動かない老師の入った棺が冷たい土に埋められて見えなくなっても、猫は泣かなかった。
 ただまた一人に戻っただけだと思った。
 一人に戻ってあてもなく彷徨っていた猫を、大きな男が捕まえた。太い腕に引きずられて連れてこられた先は豪華な娼館。こいつはいい値がつくだろう、という男の声を聞きながら、猫はゆっくりと中を見渡した。煌びやかで優雅につくられた館とは対照的に、中にいる女たちはみなどこか濁ったような目をしていた。それが死んだ魚の目だと気付いた時には、猫の針は男の首を貫通していた。
 もしものためにと老師に持たされた、薬を仕込んだ針。もらった時はただの麻痺薬だったけれど、猫が興味本位で違う薬に塗り変えていた。その薬が猛毒でもあることを思い出したのは、女たちの叫び声を聞いた時だった。だからといって驚きも後悔も何もなかった。例え最初から覚えていても、きっと猫はためらうことなく突き刺していただろう。床でぴくぴくと震える男を見ながら猫はただ、ああ、一本では綺麗に死ねないんだ、と思っただけだったから。それが猫の初めての人殺し。一人で生きていくより、ずっと簡単だった。
 結局猫は、騒ぎを聞きつけてやってきた今の主人に拾われることになる。主人は娼館の客で、その日はたまたま上の階にいたと言う。主人に誘われた組織が暗殺を請け負う所だと聞いても猫は驚かなかった。ただこっくりと頷いただけ。それだけでよかった。
 老師は針と薬を使って人を癒していた。でも猫は針と毒を使って人を殺す。
 それでいいと、思っていた。

「猫の老師は、きっと針で治療をする人だったんだね。極東にそんな医学があると聞いたことがあるよ」
 好奇心に瞳を輝かせながら鼠が言った。
 鼠は相変わらずどこもかしこもすすけて、みすぼらしい恰好でベッドの上にいる。けれど青い瞳だけは、いつも生き生きと輝いていた。
 猫が最近になって知ったことなのだが、鼠は使用人の子供ではなかった。それどころか、この大きな屋敷の跡取り息子でさえあった。
 なのにどうしてこんな屋根裏部屋に押し込まれているのかと言うと、鼠の父親が亡くなって、代わりにこの家の主人となったのが継母だったからだ。継母は連れ子である自分の二人の息子を大切にし、鼠は喘息持ちを理由にこんな屋根裏部屋に押し込んでしまった。おかげで喘息は悪化するばかりだ。
「鼠ってほんとばか。鼠が言えば本当は誰にも逆らえないのに、黙って閉じ込められているなんて」
「いいんだ。堅苦しい生活より、屋根裏部屋の方が気に入っているんだよ。猫だって来てくれるし」
 読み終わった新聞をがさごそとベッドの下に押し込みながら、鼠が朗らかに答えた。
 きっと、と猫は思う。きっと、継母は鼠が喘息を悪化させて死んでしまえばいいと思っているのだろう。
 だからこんな部屋に閉じ込めて、医者も呼ばず、薬も与えないのだ。おかげで鼠は今も埃にまみれて苦しそうに咳をしている。
 けれど鼠には猫がいた。
 老師が語ってくれた物語の中の灰かぶりのように、鼠のもとには魔法使いもお姫さまも現れなかったけれど、少女の仮面をかぶった殺人者は現れた。そしてその殺人者は少しだけ鼠の助けになることが出来た。猫にはそれがほんの少しだけ誇らしい。
 でも、と同時に猫は思う。
(でもいつか、鼠にもお姫さまが現れるのだろうか)
 想像して、なぜか気分が沈んだ。
「どうしたの」
 覗きこんでくる瞳を避けて、なんでもない、と答えて猫は鼠に抱きついた。
 もう少しだけ、もう少しだけ今の時間が続けばいいと思う。
 きっとこの時間は長くは続かない。なぜなら猫は知ってしまったから。人を殺すという本当の意味を。そして人を殺し続けてきた自分の正体を。
 死人の冷たい手がぎゅっと猫の心臓を握りつぶす。苦しくて、猫は助けを求めるように鼠の背中にまわした手に力を込めた。そうすると猫よりももっと強い力で抱きしめ返される。そのまま顔を埋めて吸い込んだ、ほこりっぽい鼠の匂い。それがどうしてか、たまらなく切なかった。今年十四になる猫よりも鼠は二つ年下だ。顔も体も声も、みんな子供のまんま。なのに匂いだけが、ミルクみたいな子供の甘さの中に、すっきりとして甘酸っぱい、男の匂いがした。

「わたしはもう、鼠には会えない」
 冬将軍が街を支配し尽くし、白い雪が悠然と横たわる夜だった。
 静かに鼠の目を見ながら、猫ははっきりと言った。
「……それは、君が『静かな暗殺者』だから?」
 驚くでも慌てるでもなく、ただ困ったように言われた言葉に猫は目を見開いた。そして「なんだ、知っていたの」と震える声で呟く。
 階下に人がいても気付かれることのない猫の暗殺。一滴の血も飛散らせることなく、残るのは物言わぬ死体だけ。
 そうした状況で、気がつくと世間からは『静かな暗殺者』と呼ばれるようになっていた。だからといって何か驚きがあったわけではない。組織から黒猫と呼ばれるのと同じくらい、猫にとってはどうでもいいことだった。
(どうでもいいことだったのに、わたしを白猫と呼んだ、鼠の口からその名前が出た)
 ぎゅっと握った拳に爪が食い込んだ。
「最初は知らずに声をかけたんだ。でも新聞を見ているうちに、君が来た次の日によく人が殺されているのに気がついて……。それに、君に最初に会ったあの晩も、近くで人が殺されていたよね。いろいろ気になって調べているうちに思ったんだ。もしかしたら、君が『静かな暗殺者』なんじゃないかって」
 鼠に会う時は、いつも仕事のことは考えないようにしていた。なのにあとになって振り返ってみれば、仕事の前夜には必ず鼠に会いに行くようになっていた。まるで鼠に会わないと、怖くて人が殺せないとでも言うように。そうやって会いに来ながらも、止むことなく遂行された猫の仕事を鼠は気付いていた。
 特別隠していたわけじゃない。ただ聞かれなかったから答えなかっただけ、と心の中で言い訳をする。
(でも、鼠は気付いていた)
 頭の中で呟いて、猫は項垂れた。
「……そういうこと」
 かすれる声で猫は言った。握りしめすぎて、血の気を失った拳を隠しながら。
 猫が人を殺してきたことを鼠は知っている。
 殺すことと比べたら知られることなんてたいしたことない。たいしたことないはずなのに、もうまっすぐ鼠の目を見ることが出来ないのはどうしてなのか、猫にはわからなかった。
「さよう、なら」
 言葉がもどかしく喉に引っかかったが、無理矢理言い切った。ついでに最後くらい微笑むつもりだったのに、顔の筋肉は猫が思うようには動いてくれなかった。諦めて踵を返そうとし、よろけてクローゼットに腕をぶつける。その拍子にカシン、と針が一本床に落ちた。その短い針は、鼠の治療に使っていた老師の針だった。
 一瞬拾おうと手を突き出して、すぐに引っ込める。殺人に使わなかった唯一の針。それは鼠と同じく、猫がもう触れてはいけないものだった。
 ぐっと唇をかみしめて天窓に登る。後ろで鼠が何かを叫んでいたけれど、聞こえない振りをして猫は飛び降りた。飛び降りて、猫、と呼ぶ鼠の声を振り切って駆け出した。
 すすけたパジャマが、小さなベッドが、狭い屋根裏部屋が、鼠が、猫から遠ざかる。遠ざかって、もう二度と触れあうことはない。頬を伝う涙に猫は気付かない振りをした。泣いたことなんかなかったから、どうすればいいのかわからなかった。
 息が切れても、冷たい空気に肺が悲鳴をあげても走り続けた。ひたすらに鼠から離れること、ただそれだけを考えて。
 不意に雪に足をとられて猫は無様に倒れ込んだ。そのまま雪の上に這いつくばって、じわじわと冷たい水が染み込んでくるのを感じていた。
 大丈夫、と猫は思った。
 鼠はきっと喘息には負けない。あんなに生き生きとした瞳の男の子が、喘息なんかに負けるはずがない。それに鼠は意外と強引で、意外としつこい。だからきっと、継母にだって負けないだろう。
 大丈夫、と猫は思った。
 唯一鼠に影を落としていた猫も今日でいなくなる。出来れば正体を知られずに消えたかったけれど、最終的に猫がいなくなればそれでいい。だからもう鼠にはなんの心配もない。障害なんか全部吹き飛ばして、鼠は前にある明るい道を歩むだけ。
(だから大丈夫)
 溢れる涙で頬を濡らしながら、猫は自分に言い聞かせた。
 ふと明りにつられて顔をあげると、ちろちろと舞う雪に隠されながら、満月が静かに猫を見降ろしていた。

 その日を境に黒猫と呼ばれた少女は姿を消した。街では静かな暗殺者の消失に、失敗して捕まったとも、逆に返り討ちにされたとも言われたが、やがて最初からいなかったかのように忘れ去られた。
 ただ一人の少年を除いては。






 静かな暗殺者が忘れ去られてから数年後。
 中心街から遠く離れた小さな農村で、美しい銀髪を持つ娘が看護婦として働いていた。銀髪に鮮やかな金色の瞳と、目立つ風貌をしていながら全く表情のない娘を、患者である村人たちはよくからかった。娘も無表情ながらも黙ってやられているわけではなく、からかわれるたびにどこに隠し持っていたのかと思うような長い針でむっつりと村人たちを刺して仕返しをした。もっとも、見た目は恐ろしくても刺された方が体は楽になるという評判が立ってしまい、ますますからかわれるようになってしまったことを娘は悔やんでも悔やみきれない。
「先生」
 この農村に唯一存在する診療所の医者を、娘は村人に倣って先生と呼んでいた。
「ああ、鼠かい」
「今日の分の薬を」
 鼠と呼ばれた娘に促されてやっと思い出したのか、しなびたきゅうりのような医者は目を見開いた。それから乱雑にものが並べてある棚をあさり、薬を一袋掴みだして投げよこす。
「どれが誰のかは、わかるよね」
 はい、と娘は頷いて待合室に戻ろうとし、ふとそこが騒がしいことに気がついた。
(また、誰か喧嘩をはじめてしまったのだろうか)
 狭い村にひとつしかない診療所では、険悪な関係の人たちが顔を合わせてしまうことは珍しくない。特に娘がここで働きだしてから頻繁にやって来るようになった一部の健康な若者は、ちょっとしたことで小競り合いを起こした。
「どうしたんですか」
 ため息をつきながら扉を開けて娘は固まった。明るい日差しがさんさんと降り注ぐ部屋に立っていたのは、この小さな村には到底不釣り合いな男だった。一目見てすぐに上等だとわかる服に身を包み、囲んでいる村人たちよりも頭ひとつ分背が高い。日に当たってきらきらと光る金髪は金糸を思わせ、硝子玉のような青い瞳はこの上なく澄んでいる。極めつけは、男がまるで彼の周りだけ空気が澄みきってしまったのでは、と思えるぐらい特別な輝きを放っているのを見て、娘は絶句して立ちつくした。
 やがて男は茫然としている娘に気がつくと、嬉しくてたまらないと言う風に顔をほころばせた。
「猫!」
 すっかり大人の男になってしまった、けれどどこか少年っぽさの抜けない声で鼠は叫んだ。
「……鼠」
 猫はそう言うのがやっとだった。胸がいっぱいになってしまった上に、それ以上言う前にすんなりと伸びた長い手に包まれてしまったからだ。おお、と室内に歓声があがったことすら猫の耳には届かない。
「ようやく見つけた。ずっと探していたんだよ。風の噂でここに銀髪で針を使う娘がいるって聞いて、きっと君だと思った」
 熱い息が猫の耳をくすぐる。吐息の熱さも、猫を抱きしめる体のたくましさも、どうしたらいいのかわからないほど恥ずかしく、ただただ猫の鼓動を強くした。
 猫が恥ずかしさと混乱で押し黙っていると、突然髪の毛に触れられた。見てみれば、昔よくしていたように、早くも鼠が猫の髪を梳いていた。ただし、当時の黒髪ではなく、銀髪を。
「どうして、わたしが銀髪だと……」
 やっと出た言葉はそれだけだった。
 人前でかつらを外したことは一度もない。老師に、これで少しは孫に見えるようにと手渡されたその日から、寝る時ですらつけていた。だからこそ、逃げるように抜けた組織にも見つかることがなかった。組織は完全に猫が黒髪だと思い込んでいたし、黒髪を銀髪に染め上げることなんて出来なかったから、猫とは結びつかずにすんだ。それは組織だけではない。鼠でさえも、猫が黒髪だと思っていたはずなのだ。
「猫が寝ている時にね……よく、ずらして遊んでたんだよ」
 前よりもずっと大きくなった体でもじもじとしだした鼠を見て、猫は急にあることを思い出した。
(だから、たまにかつらが変な風にずれていたんだ)
 それはほんの僅かなずれだったけれど、本物の髪同然に馴染んでいるかつらのずれに猫は首をかしげることがあった。当時は鼠の傍にいる時だけ寝相がおかしくなっていたのかと思ったが、原因はその鼠自身だったらしい。
「でも、ずっと思ってたけど、やっぱりこっちの方が猫に似合うよ。本当に白猫みたいだ」
 猫が怒らないとわかると気を取り直したのか、鼠が大きな口でにっと笑った。
 顔も背も別人のように成長してしまったけれど、その笑い方は猫がよく見たあの頃の鼠だった。突然あの小さな屋根裏部屋に引き戻された気がして、猫の心がきゅうと締め付けられる。そうしているうちに鼠の顔から笑いが消えて、真剣そのものの表情になった。
「ねえ、猫。僕がなんでわざわざここまでやってきたかわかる?」
 その言葉に思わず猫は目を逸らした。
「それは……」
 鼠の気持ちはあの日の夜から知っていた。
『猫、一緒にいようよ。ずっとずっと一緒にいよう』
 聞こえない振りをした遠い日の鼠の叫び。
 けれど猫がそれに応えることは出来ない。
 猫がお金に変えたたくさんの人の命。いまさら猫がどう反省し、どうあがいたって蘇ることのない命。償いのために死ぬことも考えたが、結局それも自己満足に過ぎず、本当の償いになるとは思えなかった。そうして考えた末に、猫が出来ることはひとつしか思いつかなかった。
 猫を生かし、猫を愛してくれ、そして今になって猫が愛していたと気付いた老人。その愛する老人と同じように人を癒し、命を助ける手伝いをすること。それで罪が許されるとは思ってはいない。けれど猫が出来ることはそれだけだった。だから猫は生きている。ただそれだけのために。
 でもそこに鼠を巻き込むことは出来ない。鼠には輝かしい未来があり、きっと美しいお姫さまだって待っている。そもそも最初から血で染まった猫が触れていい相手じゃなかったのだ。
 猫が黙っていると、不意に鼠が口を開いた。
「ねえ猫、これを覚えてる?」
 そう言って上着から取りだしたのは、何かを包むようにして折りたたまれた絹のハンカチだった。鼠がゆっくりとハンカチを開くと、中にはあの日猫が落としていった針が包まれていた。
「これは」
 驚いて目を丸くする猫に、鼠は嬉しそうに微笑んだ。
「ずっとこれを君に返そうと思っていたんだ」
 猫は震える手で針を取り上げた。針は尖端に透明なキャップがつけられ、ずっと手入れされてきたかのように、静かで美しい輝きを放っていた。
「僕は猫に会って、医学って本当にすごいって思ったんだよ。針を打ち込んだだけであんなに楽になるなんて思いもしなかった。最初、僕は猫が魔法使いなんじゃないかって本気で思っていたんだ」
 懐かしさに目を細める鼠とは反対に、猫の表情は曇っていった。鼠が魔法使いだと思っていた猫は、実はただの殺人者だった。鼠の綺麗な思い出を汚してしまったことが猫にはつらかった。
 ぎゅっと針を握ったまま黙り込んでしまった猫の手を、鼠の大きな手が包み込む。それから静かに息を吸い込んで鼠は言った。
「……猫がしたことは」
 猫がはっと顔をあげる。一瞬、人目があるこの場所で、猫のしてきたことを言ってしまうつもりなのかと思った。けれど見上げた鼠の瞳は、泣きたくなるほど穏やかだった。
「猫が針を使ってしたことは、きっと許されないことだと思う。猫はこれから一生、そのことと向き合い続けなければいけない」
 でもね、と鼠が微笑む。
「この針に、僕が助けられたことも事実なんだよ。たいしたことのない、ちっぽけなことかもしれないけど、僕は猫と猫の針にすごく救われたんだ。猫が空の下で踊っているのを見たあの日から僕の世界は動きだして、猫が使う針を見てから僕の世界は輝きだした。父を亡くして閉じ込められて、もう世界は終わったんだと思っていた僕に、猫は命を吹き返してくれた。今でも猫は僕にとっての魔法使いなんだよ。だから僕は、猫と一緒に生きたい」
 そこまで言って、鼠の手に力がこもった。
「それに僕だって、猫を失うのが怖くて、猫のしていることについては何も言わなかったんだ。猫を止めようとしなかった。そんな僕にも少し罪はあると思う。なら猫が背負う罪を、僕も一緒に背負うよ。そうして二人で分け合えば、少しは楽になると思わない?」
 薄い青の瞳が優しく細められていた。
 気がつけば、猫の頬を涙が伝っていた。あ、泣かせた、と誰かが叫ぶまでそのことには気付かなかったけれど、気付いた時には既に鼠の指がそれを拭っていた。
「結婚、してくれるでしょ。猫」
「でも、わたし」
「でもなんて言わないでよ。そのために家督すら兄さんに譲ってきたんだから」
(家督を、譲った?)
 驚いて声も出ない猫に、鼠はなおも続けた。
「頑張って医学の勉強もしているんだ。まだ、正式に医者としては名乗れないけどね。でももう少しで名乗れるんじゃないのかな」
 一瞬、鼠と一緒に小さな診療所を営む自分を想像して胸が熱くなった。けれどその思いをぐっと飲みこんで、猫はふるふると首を横に振った。
「だめよ……きっと、きっと許してくれない」
 命をたくさん奪った猫が幸せになんて、誰も許すはずがない。そう思い、猫は断りの意味を込めて鼠を押しやろうとした。
 押しやろうとして、鼠に手を掴まれた。
「誰も許してくれなくたって知るものか。人を愛するのに誰かの許可なんていらないよ」
 鼠が真剣な顔で言い切った。と思う間もなく一転して、次の瞬間には鼠は大きな口で笑っていた。
「猫。これからは僕と一緒に針を使って人助けをしていこう!」
 そうあっけらかんと言った鼠の顔は、晴れ晴れとしていた。猫が唖然として見ているうちに、その晴れ晴れしさが猫の心の奥底まで届いて、固まっていた何かをゆっくりと溶かしていった。溶けて、さらさらと流されていったそれは、最後にとうとう猫の口からこぼれ出た。
「ふ、ふふ」
 あ、笑った! と誰かが叫んだ。
「ふふふ。鼠って、ほんとばか」
 猫は大きく口を開けて笑っていた。まだ乾いていない涙の筋を浮かべながら、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。村人たちがぽかんと口を開けて見ていることに気付いても、猫は笑い続けた。次々と花が咲き開いていくように、笑いがあとからあとから溢れて止まらない。微笑もうとして失敗したあの夜からは、想像もつかないことだった。
 これも全部鼠のおかげなんだ。そして鼠だからこそ出来たことなんだ。そう思うと、今度ははやし立て始めた周りの声すら不思議と暖かく聞こえてくる。
 肝心の鼠はと言えば頬を染め、少し不服そうな顔をしていた。
「笑った猫を見るのはすごく嬉しいんだけどさ、そんなに笑わないでよ。僕なりに一生懸命考えた結果だったんだから。……それより、返事は?」
 きらきらと光る瞳に促されて今度こそ猫は頷いた。頷いたと同時に大きな手に頬を挟まれて、やわらかい唇が降ってきた。周りで大きな歓声があがった気がしたが、猫はそれどころではなかった。唇が離れる頃には、猫の顔は耳まで赤くなっていた。
「どこで、こんなことを」
 目を瞬きながら、猫はそれを言うのがやっとだった。
「猫は知らないだろうけど、僕は昔からずうっとこうしたかったんだよ」
 輝かんばかりの笑みを浮かべ、鼠は大きな口で満足そうに言った。部屋の中では金と銀の髪が、太陽に照らされてきらきらと光っていた。




Fin.






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