マリア

13

「単刀直入に言わせていただく。俺は貴方のことを信用できない」
 開口一番、エジェオはそう言った。僕がスナッフボックス(嗅ぎ煙草)の蓋を開ける前のことだった。
「……いまの時点で信用してもらえるとは、思っていませんよ」
 なるべく穏やかに返しながら、そっとエジェオを観察する。すぐ目についたのは、マリアと同じ、綺麗な山を描いた眉だ。周りに薄くうぶ毛が生えているあたり、整えたのではなく生まれつきなのだろう。人間の眉というのは、一見地味でありながら、顔の印象にもたらす効果は抜群だからね。マリアやエジェオが比較的垢抜けて見えるのも、この眉が大きな要因となっていそうだ。
 その形のいい眉が、いまは気難しげにひそめられている。不信の念を抱いているのは、言葉に出さずとも一目瞭然だった。
 ……やれやれ。たまには煙草で一服もいいかと思ったが、これはやめておいた方が無難だな。とてもじゃないが、間抜けなくしゃみをしていられる雰囲気じゃない。
 僕は諦めてスナッフボックスをしまった。いまは、エジェオの凝り固まった警戒心をなんとか解かせる方法を考えよう。
「ところで、話は変わりますが、妹さんがああいう風に僕のことを話していたとは思いませんでしたよ。エジェオさんもずいぶん驚かれたでしょう」
 一連の騒動を思い出して、ふっと口元がゆるむ。エジェオも思い出したようで、怒っているような困っているような、なんとも言えない顔になった。
「確かに……妹の言い口には俺も驚かされた。“綺麗で天使みたいな人”と言っただけで、女性とは言っていない、なんて……勘違いするなと言う方が無茶だ」
「そうでしょうね。僕もそれを聞いたら、とりあえず女性を思い浮かべますから」
 “綺麗で天使みたいな人”
 マリアを初めて夕食に誘った日、彼女自身の口から似たようなことを言われたことがあったが、まさか家族にも話していたとはね。評価自体はとても光栄なものだから、くすぐったいと同時に嬉しくもある。
「それに」
 エジェオがためらいがちに僕を見た。澄んだ瞳がマリアとよく似ている。さすが兄弟だな。二重の、幅が広めのところまでそっくりだ。
「これは俺が勝手に思いこんで油断していたことだが、まさかマリアが、貴方のような人に懐くとは……。こう言うと失礼かもしれないが、貴方のように、その……」
「女遊びが激しそうな?」
 口ごもるエジェオに、すかさず助け船を出す。
 軟派、軽薄、遊び人……このあたりの言葉は、ダンテともども言われ続けてきたことだ。彼にもそう思われてしまったのは残念だが、実際その通りなのだからしょうがない。
 エジェオは居心地悪そうにうなずいた。
「ああ見えて、妹は貴族の男に何度かちょっかいを出されたことがあるんだ。少し前にも、どこぞの貴公子にしつこくされて困っていた。だから貴族の、それも若い人をとくに嫌っていたはずだが……」
「へえ、そんなことが」
 僕は平静を装いながら、内心とても穏やかではいられなかった。同族の男がマリアに目をつけていたことにも驚いたが、それ以上に僕自身の行動に問題がある。
 この様子から判断して、エジェオは知らないのだろう。僕が、その男よりさらに過激な方法でマリアと知り合ったことを。なにせ、いま思い出しても人攫い同然だったからね。彼が真実を知ったらどう思うか、考えただけで気が重い。
 僕の心のうちになどまるで気づかず、エジェオが再び眉を寄せて言った。
「とにかく、貴方がどういうつもりで妹に接しているのかは知らないが、兄としてはっきり言わせてもらう。マリアに関わるのはやめてくれ。あの子が不幸になる」
 しくりと、心に鈍い痛みが広がる。
 ダンテにも似たようなことを言われたはずなのに、今回はずいぶんと突き刺さるな。エジェオがマリアの兄で、同じ緑の瞳をしているからか? ……いいや、僕が貴族と言うだけでマリアを不幸にすると言われたからだ。
 予想はしていても、やはり言葉に出されるのはいつだって応える。僕はしおれそうになる気持ちを、ぐっと拳を握って耐えた。

――マリアを、不幸になどさせない。

 粉雪が、ちらちらと漏れる灯りに照らされて音もなく振っている。すうと息を吸い込むと、真冬の冷たい空気が体のすみずみまで行き渡り、ゆるんでいた背筋がぴんと伸びた。
――聖誕祭。聖イエス・キリストが生まれた日。
 彼は狭く小さな厩で、藁にまみれながら産声をあげたという。なら、僕もこの狭く小さな路地裏で響かせようじゃないか。決して変わらぬ、誓いの産声を。
「僕は、マリアを愛しています」
 辺りが、しん、と静まりかえった。薄く積もった雪から物言わぬレンガまで、世界中のあらゆるものが、僕の言葉を聞こうと耳を立てているようだった。エジェオは目を丸くしている。驚きすぎて、言葉も出てこないらしい。
「僕は生涯、彼女のそばにいるつもりです。エジェオさんが望んでいないのはわかる。でも、僕にはどうしてもマリアが必要なんです。誰に何を言われようと、この気持ちは変えられません」
 僕の吐露に、エジェオの瞳が揺れた。
「貴方は……妹をどうする気なんだ……。結婚はできないと、自分で一番よくわかっているでしょう」
 まったく持って理解できない――彼の表情がそう語っている。かまいやしないさ。理解など、最初から求めてない。これは宣誓なんだ。僕は声を大きくして言った。
「いいえ。結婚します。生涯の伴侶として、マリアを妻に迎えます」
 妻。生涯の伴侶。
 強い力を持った響きに、ぴりりと鼓膜が震える。
 この位置にマリアを、と決めたのはついこの前。背中を押したのは、皮肉にも交際を止めにきたダンテだった。
「僕のすべてを持って、生涯マリアに尽くします。爪の一片から髪の一筋に至るまで、もちろん、オルドイーニと言う(由緒ある)名前も、捧げられるものはすべて捧げます」
「言葉では、なんとでも言える」
 険しい表情で、エジェオが否定する。
「ええ、言葉だけでは」
 僕はうなずいた。
 言葉など、海に溶ける人魚姫の泡よりも儚いもの。無条件で信じるのは危険すぎる。
 かといって、法を通したから安全かと聞かれればそれもノーだ。結婚した後になって、一方的に離縁された例は腐るほどある。その筆頭は、諸国に君臨する王たちだろう。十六世紀イングランド国王のヘンリー八世を見よ。あれほど熱心なカトリック信者だったのに、(アン・ブーリン)と寝るためだけに神と法を捨てている。神の血を引き継ぐはずの王たちですらこの有様だ。絶対的な保証なんて、誰にもつけられなかった。
 だからこそ、人々は躍起になって“安全”を探してしまう。自分や愛する人を守るために。
 僕はエジェオに向き合うと、すっと胸の前で片手を握った。神に誓いを立てるように、君主に忠誠を誓うように、彼を仰ぎ見る。
「一生をかけて示しましょう。マリアを決して不幸にさせないと。彼女を、幸せにすると」
「……無理だ。貴方とマリアは住む世界が違う」
 エジェオが首を振って否定する。しかし、一瞬ではあったものの、その言葉が出てくるまでに間が空いた。そこに彼の迷いを見た気がして、僕はさらに踏み込んだ。
「守ります。マリアを社交界の餌食になどさせない」
 返事はない。
 ここらが限界か。これ以上押して、態度を硬化させてしまう必要はない。
 僕はふっと表情を和らげると、一変して親しみやすさをにじませた、のんびりとした口調で言った。
「幸いにも、僕はあの世界に何の執着もない。しがらみも、未練も、何も」
「……地位を捨てると言うのか」
 低く押さえたエジェオの声に、にこりと微笑む。
「いいえ、爵位は捨てませんよ。あれは持っていると何かと便利ですからね。僕が捨てるのは……そう、貴族という誇りでしょうか」
 自分がやろうとしていることを考えて、家族に思いを巡らせる。亡き両親には泣かれるかもしれないな。それから、兄弟たちには迷惑をかけるだろう。そのことも今後償っていかなくては。
「……駄目だ。信じられない」
 エジェオの言葉には、わずかながら揺らぎがあった。どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
 やはり、迷いが生まれているのだ。僕を信じるかどうかという、迷いが。それは、現時点で十分すぎる手応えだった。
「かまいません。こうして話を聞いてくれただけで、ありがたいのですから」
 それで、この話はおしまいだった。
 どちらからともなく、ふたりで紺色の空を見上げる。父なる神が遣わせたのだろう。聖イエス・キリストの誕生を祝福する白い花びらが、ひらひら、ひらひらと舞っていた。
「このことはマリアには秘密にしていただけませんか。こんな大仰なことを言っていますが、実は告白もまだなんです。変に彼女を驚かせたくない」
「俺は言わない。貴方こそ、このまま妹に告白などしないでほしいのだが」
 エジェオの言葉に、薄く笑う。自分のことを頼んでおきながら、彼の願いはまったく聞き入れる気がない辺り、僕も相当だ。
「もどりましょうか、中へ」
 もっとも、彼も予想していたのだろう。さしたる失望も見せずに、エジェオは黙って家の扉を開けた。

 結局、その晩は時計の針が十二時を回るまで僕はマリアの家にいた。レーナ婦人には泊まっていくかと聞かれたが、丁重にお断りしたとも。あまり居座って、これ以上エジェオの不興を買いたくはなかったからね。いまはマリアと新年祭を過ごせるだけでよしとしよう。
 そう、僕はちゃっかり約束を取り付けてしまったんだ。エジェオはもちろん反対したが、新しい蔵書に目を輝かせるマリアに強く言えない辺り、彼は相当甘い。



 冬の澄んだ空では、真新しい太陽が、白く輝く御身を惜しげもなく披露している。さんさんと降り注ぐ日の光は、神の愛そのものだ。
 僕は書斎のソファに横たわり、上質な綿のシャツ一枚で、毛布もかけずに陽の光を楽しんでいた。やがて現れた人物に、心からの笑顔で微笑む。
アウグーリ・ボナーノ(あけまして、おめでとう)。マリア」
「……おめでとうございます」
 ありったけの防寒具に身を包み、寒さのために頬を赤らめたマリアがはにかみながら答える。
「兄君とは、喧嘩しなかったかい?」
 立ち上がり、ぐるぐるに巻かれたマフラーをほどくのを手伝いながら僕は聞いた。
「ええ、大丈夫。……何か言いたそうにしていたけれど、新年だもの。ただ、早めに帰ってくるように、って」
 早めに帰ってくるように、か。僕はくすりと笑った。
 この様子だと、やはりエジェオはあっさり陥落してくれるかもしれないな。心の底から反対しているのであれば、こんな簡単に会わせてくれるものか。もちろん油断は禁止だが、僕としてはありがたい限りだ。
「では、今日は遅くならないよう気をつけなくてはね」
 言って、マリアのショールをとった。露わになった首筋はほっそりとして、しわひとつない滑らかな肌をしている。
「……少し寒いわ」
 首元を隠すように覆ったマリアの手を、僕はやんわりと掴んだ。
「ソファに座って日にあたれば、暖かいさ……」
 幼子の手を引くように、マリアの手を引いてソファに座らせる。暖かな日の光に照らされて、彼女の肌がまばゆいくらい、白く輝く。
「本当だ、暖かい……」
 ほう、と吐息のような呟きが漏らされる。そのままマリアは目を閉じて、太陽の恩恵を楽しんでいた。
 その姿に、僕はこくりと唾を飲んだ。
 ほどけてゆるく肩にかかった金髪に、白く浮き出た鎖骨。緑の瞳は長いまつげに隠されて、しっとりとした無垢な唇が、口づけを待つように開かれている。
 なんて無防備で、なんて扇情的な光景――。
 こんな姿を晒したらどうなるのか、マリアは一度でも考えたことがあるのだろうか。いますぐ彼女を乱暴に組み伏せ、白い喉元に喰らいついて、欲望のまますべてを貪り尽くしたい。そうされても文句を言えないほど、隙だらけだと言うのに。
 それほど僕を信用していると言うのか。こんな、浅ましい考えしか持たない僕を……。
「マリア」
 耐えきれず呼びかけると、彼女がふわりと目を開けた。その瞳は今日も美しく澄んでいて、子どものように無邪気に語りかけてくる。僕を信頼しきった無垢な瞳に、胸が狂おしいほど締め付けられる。
 ああ、本当に、どうしようもないくらい、僕は――。
「……君が好きだ」
 限界までたまった杯から水がこぼれるように、気がつけばそうこぼしていた。ぴくりとマリアの体が震える。
「どうしようもないほど、君が好きだ」
 もう一度くり返す。それは祈りにも、叫びにも似ていた。
 マリアの瞳が、みるみるうちに見開かれていく。嬉しさや、驚きからではない。幸せな夢から覚め、つらい現実に帰ってきたときに見せる、悲しみの表情だ。
 ああ、僕は振られるのだ……。
 そう理解したはずなのに、不思議と気持ちは穏やかだった。
 なぜなら、僕は愛を告げられるだけで幸せだったんだ。マリアに何も求めない代わりに彼女の都合も考えない、身勝手で、この上なく幸福な告白。
 マリアが静かにうつむく。垂れた金の髪に隠されて、表情はよく見えない。
「すまない。君を困らせるだろうとはわかっていた」
 僕は手を伸ばし、そっと彼女を抱きしめた。暖かく華奢な体がすんなりと腕の中に収まる。
 彼女は何も言わない。僕は、暖められた藁のようにやわらかく、心地よいマリアの匂いを吸いこんだ。
「いいんだ。君は何も答えなくていい。僕を嫌いなままでかまわない」
「……嫌いだったら、ここにいない」
 やっと聞こえた声は、小さく、くぐもっている。力を緩めると、マリアが顔をあげてまっすぐ僕を見た。潤んだ瞳が光を吸い込んで、ゆうらりと揺れる。涙こそこぼれていないものの、目の縁が赤い。
「嫌いじゃない。……でも」
 ふるると涙の湖面を震わせて、マリアが眉を寄せる。
「あなたは貴族。わたしは……」
「待って」
 僕はとっさに親指でマリアの唇をふさいだ。唇の隙間から漏れた吐息が、僕の指を甘く湿らせる。
「それは言わないでおこう」
 いまは、まだ――。言葉を、胸の奥にしまいこむ。
 いつか、マリアを迎えに来られる日まで、彼女を生涯守り通すと、太陽の前で誓いを立てられる日まで、この先には踏み込まないでおこう。
「僕たちの関係は、何も変わらない」
 そっと、彼女の右頬へキスを落とす。それから、左頬にも。
「いままで通り、僕が一方的に君を好いているだけ。だから、君は何も考えなくていい」
 溢れる想いを右まぶたに、固い決意を左まぶたに落としてゆく。最後に、彼女の美しい額を撫でて僕は囁いた。
「いまはただ、君を好きでいさせてくれ。マリア」
 遠く、どこまでも澄み渡るマリアの瞳が、僕を静かに見つめている。
 目の前に草原を見た。
 命が芽吹く悠久の緑の中、金の髪をなびかせ、マリアが白の衣に身を包んで立っている。胸に抱いた白ユリを、風に飛ばされないようしっかりと抱えながら、マリアは待っていた。ほかの誰でもない、僕を。
――いつの日か、必ず君に誓おう。永遠の、愛を。
 心の中でつぶやいて、僕はきつくマリアを抱きしめた。彼女の涙が、服に吸い込まれて消えてしまえばいいと願いながら。
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