マリア

15

 どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。
 気がつくと僕は、冷たい手紙を手にベッドに座り込んでいた。フランコが灯してくれたのだろうか? 蝋燭が、暗くなった室内を照らしている。いつの間にこんなに日がくれていたんだろう?
 僕は手の中の遺書を見た。封が開けられ、やや変色した茶褐色の封蝋が、未練がましく貼りついている。一度目はグロンキ伯爵未亡人が開け、二度目は僕が開けたものだ。中は……中には、なんて書いてあった? 僕は、遺書を読んだのか?
 震える指で文をひっぱりだす。紙がかさりとこすれる音が、怖いほど大きく部屋に響いた。



――親愛なる、ニコロへ

 貴方はいま、愛する貴方を置いて旅立つ私をさぞ恨んでいることでしょう。どれだけ謝っても足りないとわかっているけれど、ごめんなさい。

 私は、疲れてしまいました。

 私の罪深き性が、貴方を深く傷つけているのを知っていました。
 私を見送る貴方の顔が絶望に歪み、小さな子どものように打ち震えているのを知っていました。
 私を抱く貴方の瞳が、悲しみで濡れそぼっているのを知っていました。
 私から悪魔を追い出そうと、貴方が密かに計画し、諦めたのを知っていました。

 なのに、私はやめられませんでした。
 貴方を傷つけ、泣かせてまでして求めたのは、愛してもいない男たちの欲望でした。私には、人間としての何かが決定的に欠如していたのです。男を求め、受け入れずには、生きていけなかったのです。

 貴方と結婚した一年は、本当に夢のような日々でした。初めて、私の中にあるどうしようもない空洞が満たされたと思ったのです。貴方という、ただひとりの男によって。これでもう、ほかの男になど頼らなくていい、私が探し求めていた安息地はここにあったのだと……最初はそう思いました。

 けれど、それは違いました。私の罪深き業は、貴方のように汚れなき人では駄目だったのです。私は、汚れた男たちの精を受けてやっと、満たされる女でした。私という女は、汚らわしいものでいっぱいになってやっと、初めて私になれたのです。

 私は絶望しました。
 愛する貴方を傷つけることしかできない自分に、終止符を打とうと思いました。
 本当に、勝手な女です。貴方の涙を止めるためではなく、自分で自分に耐えられなくなったからゆくのです。こんなことをしても貴方は喜ばない、それどころか、もっともっとたくさんの血の涙を流すでしょう。そのことを百も承知しているというのに……本当に、ごめんなさい。

 せめてもの手向けに、私は貴方を陥れようとする男を連れて、現世から立ち去ります。
 あの男は、貴方の財産を狙っていました。立派な妻と地位、それにお金も手に入れたというのに、まだ足りていなかったのです。彼は貴方を言われなき罪で陥れ、投獄してから、財産を握った私といっしょに逃げるのだと言っていました。
 強欲で、愚かな男です。私がそんな誘いに乗るはずなどないのに。けれど、私の道連れには、これくらいの男がお似合いなのでしょう。

 もし、貴方が、偉大なる詩人(ダンテ・アリギエーリ)のように、永劫の場所(地獄)へくることがあったら、第七の園谷で私を見つけてください。節くれてひねまがり、棘のある木(自殺者の木)になった私を、貴方の手で手折ってください。私は喜びに、血の涙を流すでしょう。貴方に手折られる夢を見るのが、私に残された最後の幸せなのですから。

 どうか、どうかお元気で。私が与えられなかった幸せを、今度こそ生きて見つけてください。

 愛しています。ニコロ。

――ベルナルデッタより



 読み終えて、僕はその場にゆっくりと崩れ落ちた。
 この数ヶ月、マリアの手を借りながらやっと築き上げた大地(幸せ)が、根本から崩れていく気がした。
――ベルナルデッタは、あの男が好きだったわけじゃなかった。彼女は僕を守って逝った。彼女は悩み、助けを求めていた。僕が気づいてやれば、彼女は絶望することも、逝くこともなかった……。
 ひとつひとつ理解するたびに、幾千もの矢で射抜かれるような痛みが僕を襲う。全身が燃えるように熱かった。目玉の裏までが、焼け付くように痛い。

 そんな……あんまりだよベルナルデッタ。君は、最後に僕を守って死んだというのか?

 僕は、僕は君を恨むことで生き延びていたというのに!

 気がつくと、獣のような咆哮をあげていた。自分の声とは到底信じられないほど、低く恐ろしい叫びがほとばしる。体が千々に引き裂かれるようだった。
「ニコロ様!?」
 僕を呼ぶ声がして、誰かが部屋に飛び込んでくる。それが誰なのかを確認することもなく、僕は意識を失った。



――いかないで、いかないでベルナルデッタ! 僕を置いていかないでくれ……。僕は君という太陽に生かされていたんだ。君がいなければ、凍え死んでしまうよ……!
――でも、貴方は私を助けてくれなかった。
――ああ! その通りだ……その通りだとも……。君を救えなかったのはほかでもない、僕だ……。
――それに、貴方はまだ生きているわ。どうして、すぐに私を追いかけてきてくれなかったの?
――おお、すまない。本当にすまない……ベルナルデッタよ……。臆病な僕を許しておくれ。もう、君を待たせやしない。いまこそ追うよ、君の後を……僕の命は、いまや風前の灯火よりも儚いのだから……。



「……ひどく、うなされている……衰弱が……しい……」

「……コロ、ニコロ、しっかりしろ…………コロ……」

「兄……は……どうなって…………しま……」
 大きな鐘の内側に反響させたような、歪んではっきりしないいくつもの声が聞こえる。僕はときおり目を覚まし、声の主を見ようとした。しかし、かろうじて判別がつくのは、目の前にいる人物はひとりではないということだけ。男か、女か、それすらも確認できずに、僕の意識は深淵へと連れ戻されていく。

「……起きて……、……、お願いだから目を開けて……」
 何度目かの悲痛な呼び声に、沈んでいた意識が浮上する。まぶたを開けると、今度はぼんやりとした輪郭が見えた。豊かな金の髪をした……女性だろうか。
「マ、リア……?」
 ほとんどかすれて聞こえない声で、僕は名前を呼んだ。手を伸ばして彼女に触れようとすると、逆に強く手を掴まれた。だが、つぎの瞬間聞こえて来た声は、マリアのものではなかった。
「兄様! しっかりして、わたしよ。ドーラよ!」
 高く、気の強そうな声。僕はぼんやりとした頭でくり返し名を呟く。
「ドーラ……」
 それは妹の名前だった。フォルリに嫁ぎ、最近はとくに連絡もなかったはずなのに、どうしてここへ……? 久しぶりなんだ、会話を交わさなければ……そう思うのに、体はどんどん眠りへ落ちていこうとする。まるで、マリアでなければ話さない、とでも言っているようだ。
「兄様、兄様、しっかりして……!」
 水の中に沈んでいくように、声が遠くぼやけていく。
 元気にしていたかい、ドーラ……。そう言いたかったのに、言葉が出てくる前に気を失った。



 夢を見た。
 夢の中で僕は十字架にはりつけられ、息耐えようとしていた。街ゆく人は誰も、僕程度の罪人には顔も向けやしない。やがて、誰からも忘れ去られたと思った頃に、深く頭巾をかぶった三人の人間が現れた。彼らは顔を伏せたまま無言で僕を降ろし、絶望という名の香油を塗り込んでいく。最後に僕の体を亜麻布に包むと、真新しい棺に僕を落とした。
 棺の中は、むせかえるような薔薇の香りでいっぱいだった。、濃密な、死の匂いでもある。
 僕は悟った。このまま死んでいくのだと。聖イエスではない僕に、死からよみがえる力などありはしない。このまま体が朽ち、魂が地獄に落ちていくのを待つしかできないんだと……。
 僕が諦めて目を閉じ、そのまま眠りにつこうとしたとき、不意にどこからか甘く、すっきりとした百合の香りが漂ってきた。と同時に、瞼越しにかすかな灯りがともる。それは蛍のように控えめでやわらかく、そして暖かかった。僕は誘われるように、重いまぶたを開けた。
「マリア……」
 ぽつんと蝋燭がともる暗い部屋の中、目を真っ赤に腫らしたマリアがいた。彼女が、僕の手を強く握っている。
 ぼんやりとした頭では、それが現実なのか夢なのか区別がつかなかった。その境目の曖昧な、とろりとした心地に誘われるように、僕の口からいままで誰にも言えなかった本音がほろほろとこぼれていく。
「マリア……僕はね……怖かったんだ。何もかもが、怖かったんだよ……」
 僕の声をよく聞こうと、マリアがそっと耳を寄せる。ちらりと見えた横顔に、まだ乾ききっていない涙の跡が見えた。
「ベルナルデッタを咎めることも、彼女と向き合うことも、彼女の後を追いかけることも、すべて怖くて、できなかった……」
 そう、僕はすべてが怖かった。
 行動を咎めて、彼女に嫌われたら? 彼女に、僕の元を離れると言われたら? 後を追いかけて、拒絶されたら?
 ひとつひとつが重い枷となり、結局僕は何もしなかった。やがて、僕は自分の臆病さを見透かされたくなくて、彼女の瞳すらまっすぐに見られなくなったよ。彼女の美しい、はしばみ色の瞳を。
――僕は何もしない代わりに、あまりに多くのものを失った。
 そのことから目をそらしたくて僕がやったことと言えば、死ねない臆病さを恨みにすり替えたことだけ。彼女を許せないから(・・・・・・)死なないのだと、思うようになっただけだ。
「哀れな……男だ……」
 自分を思い切り罵り、嘲笑ってやりたかった。だが、そうする力も残されていないらしい。嘲笑は耳触りな咳となって、むなしく口からこぼれるばかり。忌まわしい音を響かせながら、僕は力を振り絞って言った。
「本当に、愛していたんだ」
 ベルナルデッタを、愛していた。その気持ちに嘘偽りはない。
「だけど、彼女の本当の姿を見ようとしなかった。心のどこかで、彼女が寂しさを抱えていると、気づいていたのに」
 家族のことを語るときの、ベルナルデッタの悲しそうな瞳。嘲笑から垣間見える、寂しげな横顔。
 本当は、気づいていた。
 だが、僕は彼女の偶像を愛し、本当の姿を見ようとしなかった。強くて美しい彼女にだけひれ伏し、寂しく弱い彼女を無視した。僕が本当に目を向けるべきは、愛すべきは、ひとりで泣く、弱い彼女だったというのに――。
「ベルナルデッタ……ごめんよ、ベルナルデッタ……」
 うわ言のように、僕は繰り返した。このまま目覚めぬ眠りについて、永劫の世界へ行きたかった。ベルナルデッタに会って、謝りたかった。彼女が節くれた木になって罪を償うというのなら、僕も隣で寄り添おう。ベルナルデッタを、ひとりにはさせない。
 急速に、体の力が抜けていく。僕の望み通り、命の灯火が尽きようとしていた。覆いかぶせて消したのはほかの誰でもない、僕自身だ。
 いまこそ、いまこそ死ねるときが来た。僕は目をつぶり、永遠に意識を手離そうとした。
――そのときだった。
「行かないで……」
 一滴のしずくが水面を震わせるように、かすれた声が僕の意識をひきとめる。ぽつ、ぽつと、頬に恵みのしずくが落ちた。
「行かないで、ニコロ。いいえ、行ってはだめ。あなたはまだ、生きなくてはいけないのよ」
 鉛のように重いまぶたをこじあける。マリアが、あふれる涙もそのままに、強い、強い緑の目で僕を見つめていた。それは厳しい寒さに耐え、重い土を押し分けて芽吹いた、生命力にあふれた新緑の目だ。
「あなたは生きるのよ、ニコロ。わたしといっしょに」
「マ……リア……」
「ベルナルデッタさんは、あなたの死なんか望んでいない」
 大粒の涙をこぼしながら、マリアが僕をにらみつける。
「どうして、そんな大事なことをいつもいつも勝手に決めるの。もっと、わたしたち(・・・・・)を見て」
――見て、ニコロ。この髪飾り、綺麗?
 斜陽に照らされたベルナルデッタが、結い上げた髪に挿す白百合の髪飾りを指して言った。
――ああ、とても綺麗だよベルナルデッタ。髪飾りも、君も、本当に綺麗だ。
「目をそらさないで、わたしたちをよく見て!」
――……ねえニコロ。本当に、私は綺麗……?
 逆光で、ベルナルデッタの顔がよく見えない。彼女が息をひそめて、僕をじっと見つめている気配がした。
「わたしたちが本当は何を願っていたのか、あなたの目でしっかり見て……!」
 強く、握った手に力が込められる。
 もちろん、綺麗だよ……そう言おうとして、僕は口をつぐんだ。ベルナルデッタは例えようもなく美しい。しかし、あくまでもそれは外見だけの話だ。彼女が求めているのは、果たしてそのことだけなのだろうか……?
 しばし考えた末に、僕は口を開いた。ベルナルデッタのはしばみの瞳を見つめ、愛を込めて。
――……もちろん、よくないところやなおしてほしいところもあるよ……。けれど、そこも含めて、君はとても綺麗だ(愛している)。ベルナルデッタ。
 ふわりと花がほころぶように、ベルナルデッタが微笑む。
――ありがとう、ニコロ。
 それは、いままでで見た中で、一番美しい笑みだった。
――おやすみ、ベルナルデッタ。永遠に。どうか、安らかな眠りを……
 僕はそっと口づける。滑らかな手に敬意のキスを、美しい額に別れのキスを。
 淡い光に包まれて、ベルナルデッタが静かに消えていく。僕は彼女をじっと見送ってから、振り向いた。
――僕にはまだ、待っている人がいる。
 僕が閉じめられた冷たい棺の蓋を、爪から血を流しながら、開けてくれた人がいる。
「ニコロ……わたしを見て……」
 ああ、彼女が泣いている。
 僕は手を伸ばした。枕元に顔を埋め、泣いているその人の頬にそっと触れる。はじかれたように、マリアが顔をあげた。
「マリア……僕は、ここにいるよ」
 笑いかけると、マリアの顔がくしゃりと崩れた。大粒の涙があふれ、暖かな水が指を濡らしていく。
 僕は無言で泣く彼女の頭を撫でながら、神に、ベルナルデッタに、マリアに、そして、僕自身に誓った。
「僕は、ここにいる。もう、どこへも行かないよ――」
 くしゃくしゃになった顔をさらに歪ませて、マリアがこくりとうなずいた。
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